はじめに
生活保護を受けていると、医療費の窓口負担は0円になる。国が定めた最低限の基準で生活をしている者は窓口で支払いがないのだ。私もこの仕組みに助けられた。けれども、ありがたいという感謝の気持ちと同時につらさもあった。「支払いがない」ことを素直に喜べない。胸の奥に沈んでいく重い苦しい感覚。感謝の気持ちは確かにあるのだが、それだけでは整理しきれない感情もあった。誰にも言えなかったけれど、あの痛みはずっと胸の奥に残っている。
制度の仕組み
生活保護には「医療扶助」という仕組みがある。医療機関を受診した際の費用を公費でまかなう制度だ。診察料や検査、薬代などを含めたすべての医療費が医療機関に直接支給される。そのため、窓口での自己負担は原則として0円になる。お金がなくても必要な医療が受けられる仕組みで助かっている命は少なくない。
自分の体験と気持ち
病院で診察を受けたあと、受付で「今日のお会計はありません。」と言われる。その一言で胸の奥がギュッと苦しくなる。周囲にいる他の患者さん、誰かがこちらを見たわけでも、何かを言われたわけでもない。それでも、申し訳ないような恥ずかしいような、消えたくなるような気持ちになってしまう。「せめて1割でも払えたら、気が楽なのに」と何度思ったかわからない。実際には、生活がぎりぎりだから、それすら難しかったかもしれないけれど、お金だけの問題ではなかったと思う。「すべて与えられる」状況にいると自分がとてもダメな人間に思えてしまう。ほんの少しでも自分の意志で払うことができていたら、自分を卑下せずに済んだかもしれない。
モラルハザードは“患者側”だけじゃない
生活保護の医療費が無料であることは、しばしば「モラルハザード」の原因だと批判される。「無料だから無駄に通院する」とか「薬を余分にもらう」といった批判が、ネットで周期的に起きる。それは一般の人からだけでなく医療関係者からも発信されている。けれど、現実には医療者側のモラルハザードも存在している。生活保護の患者を“固定収入”と見なし、必要のない検査や通院を繰り返させる医療機関。そんな話を複数の看護師や医療事務の知人から聞いたことがある。それでも、いつも批判の対象になって責められるのは患者の側だ。受給者は「ズルをしている」という社会のまなざしに、私自身も傷ついてきた。
もしも窓口負担のある制度だったら…
たとえば、生活保護を受けている人でも、1割だけでも自己負担がある制度だったらどうだろう。3割負担の人よりはずっと少ない金額であっても、実際に窓口で現金を支払うという行為があるだけで受診のハードルは上がるはずだ。「本当に必要かどうか」を考えるきっかけになり、安易な受診を防ぐ効果があるかもしれない。それは患者側だけではなく医療者側にも影響する。無料であることによって起こるモラルハザード、たとえば必要のない検査や通院を繰り返すことも、実費負担の仕組みがあることで抑制される可能性がある。一度「自分が負担する」というプロセスを通ることで、自分にかかった医療費を意識できるし、制度への感覚も変わるのではないだろうか。
そして、モラルハザードを防ぐというだけでなく、患者側の尊厳も守られるのではないかと思う。無料であることが「与えられるだけ」の状態をつくり出してしまい、そのことで自分の存在価値すら見失いかけることがある。少額でも自分で支払うという行為が、「私は与えられるだけの存在ではない」と感じさせてくれるなら、必要以上に自分を卑下せずに済むようになると思う。また、生活保護受給者だけがズルいというような不満の声も、多少は軽減されるのではないだろうか。社会とのあいだにある見えない境界線が、少しだけなだらかになるような気がする。
終わりに
生活保護の制度に救われたことは間違いなく事実だ。制度がなければ、私は子どもたちを育てられなかったかもしれないし、生きることすら難しかったかもしれないと思う。とても感謝している。その思いは、今も変わらない。けれど、いつも感謝とつらさが背中合わせだった。「ありがたい」と思う気持ちの裏に、「申し訳ない」「恥ずかしい」といった思いが重なっていた。窓口で何も払わずに医療を受けることに、どうしても後ろめたさを感じてしまっていた。ほんの少しでも、現金を支払う行為があれば、あのつらさが和らいでいたように思う。「すべて与えられている存在」という感覚にとらわれずに済んだかもしれない。たとえわずかな金額でも自己負担できていたら、制度の一部を担っているという感覚を持って通院できたかもしれない。
支えられることと、自分の尊厳を保つこと。どちらかをあきらめるのではなく、両方が自然に共存できる制度があったなら、それは誰かの明日を少しだけ生きやすくする仕組みになるかもしれないと思っている。
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