DV・アルコール依存・共依存は、なぜ絡まり合うのか?自分を責めてしまう構造を整理する


はじめに|個別の体験ではなく「構造」を整理するために

DV、アルコール依存、共依存は、それぞれ別の問題として語られることが多いテーマです。しかし、家庭の中ではこれらが同時に存在し互いに影響し合いながら状況を複雑にしていくことがあります。その結果、外から見ると理解しにくい状態が長く続いてしまうことも少なくありません。

この記事では、DV・アルコール依存・共依存がどのような構造で絡まり合うのかを整理します。誰かを責めたり、解決策を提示したりするのではなく、「なぜ問題が見えにくくなるのか」「なぜ選択肢が限られていくのか」を考えるための材料を提示することを意図しています。

なお、私はこの分野の専門家ではありません。本文は、私自身の過去の経験を振り返りながら、後から構造として整理してきた一経験者としての考察です。すべてのケースに当てはまるものではなく、問題を考えるための一つの視点として読んでいただければと思います。


DVは一つではない|身体的・精神的・経済的DVの重なり

DVという言葉から、殴る・蹴るといった身体的暴力だけを思い浮かべる人は少なくありません。しかし実際には、暴力は一つの形だけで現れるとは限りません。身体的DVに加えて、言葉や態度による精神的DV、生活費を渡さない、金銭管理を一方的に握るといった経済的DVが、同時に存在することもあります。

これらが重なり合うと、被害は単純な出来事の積み重ねではなくなります。心身の安全だけでなく、判断力や選択肢そのものが気づかないうちに少しずつ奪われていきます。

強い出来事が繰り返されるうちに積み重なった妥協が違和感を覆い隠して、「これくらいは仕方がない」「自分が我慢すれば収まる」といった考えが日常化していくのです。その結果、状況を客観的に捉える視点が徐々に失われ、外部から見れば不自然に思える状態が、当事者にとっては「いつものこと」「自分が悪いのだから仕方ない」として受け止められるようになります。

こうした状態は、強い緊張や不安の中で心身を守るために働いた防衛的な反応として捉えることができます。衝突や悪化を避け、その場をやり過ごすために身についた認知の調整により、「自分が悪いから相手が暴力を振るうのだ」「自分が至らないから状況がこうなっているのだ」と考えるようになる場合も少なくありません。これは加害行為を正当化するためではなく、原因を自分の側に引き取ることで状況を理解し、制御しようとする心の働きとして説明することができます。

外から見れば「なぜ離れないのか」と疑問に思われがちな状況も、当事者の内面ではこのような過程を経て複数の要因が絡み合い、簡単に整理できない状態になっていることがあります。


アルコール依存が家庭にもたらす影響

アルコール依存は、飲酒する本人だけの問題として捉えられがちです。しかし家庭という単位で見ると、その影響は周囲にも広がっていきます。気分や言動の変化、生活リズムの乱れ、約束が守られない状態が続くことで、家族にとっては常に緊張を強いられる環境を生み出します。

一経験者として振り返ると、アルコール依存だけが単独で存在しているケースを私はほとんど知りません。依存の背景には、対人関係の歪みや家庭内の不均衡、他の問題が重なっていることも多く、飲酒そのものだけを切り離して理解することは難しいと感じています。

私の場合も、アルコール依存のあった元配偶者は、飲酒状態になると暴力的な言動が表に出やすくなる傾向がありました。ここで述べたいのは個別の行為ではなく、アルコールによって抑制が外れたとき、すでに家庭内に存在していた緊張や力関係が、より表面化しやすくなるという構造です。

こうした状況が日常化すると、家族は問題を避けるために行動を調整するようになります。刺激しないように言葉を選ぶ、先回りして片付ける、問題を外に出さないようにする。その積み重ねが、家庭全体を巻き込んだ構造へと変化していきます。

それに加えて、飲酒や暴力の後に起きたトラブルを家族が後始末してしまうことも少なくありません。外部との摩擦を避けるために説明や謝罪を引き受け、生活を立て直そうとする行動が、結果として問題を解決しにくくしてしまう場合があります。

このように、依存や暴力の影響を受けながら周囲が適応していく過程は、次第に「支える側」「我慢する側」という役割を固定し、関係性そのものを変えにくくしていきます。


共依存という構造|なぜ関係が維持されてしまうのか

DVや依存のある関係性が長く続く背景として、「共依存」という概念があります。共依存は、どちらか一方の性格や弱さによって生じるものではなく、関係の中で役割が固定されていく構造として捉える必要があります。

一方が問題を抱え、もう一方がそれを支え、補い、場を保つ役割を担う。その関係が続くうちに、「自分が何とかしなければならない」「離れたら相手が崩れてしまう」という感覚が強まり、関係そのものを見直す視点を持ちにくくなっていきます。結果として、外部からは理解しにくい状態が維持されてしまうことになります。

共依存の関係では、「支える側」が問題を食い止めているように見える一方で、その役割を手放すことに強い不安を感じるようになることがあります。相手を支えることで保たれている自分の役目が自分の存在価値のように感じてしまう状態に陥ってしまうのです。

また、家族や周囲が後始末を引き受ける構造が続くと、問題が表面化する機会そのものが減っていきます。トラブルが外に出ない状態が保たれることで、関係性は一見安定しているように見えますが、その内側では役割の固定と負担の偏りが深まってしまいます。

この過程では、人としての境界線が少しずつ曖昧になっていくこともあります。本来は本人が向き合うべき責任を支える側が肩代わりするようになり、それを「辛い」と感じながらも、結果として相手が自分で立ち直る機会を奪ってしまうことがあります。知らず知らずのうちに、支える行為そのものが、相手の自立を妨げる形になってしまうのです。

ここで重要なのは、こうした行動の多くが「善意」や「責任感」から生じている点です。関係を壊したくない、これ以上事態を悪化させたくないという思いから、問題を自分の側で引き受ける選択が重ねられていきます。しかしその善意は短期的には状況を落ち着かせる一方で、長期的には構造そのものを温存し、悪化させてしまう働きを持つことがあります。


生育歴と役割意識|機能不全家庭で身につくもの

共依存の構造を理解するうえで、生育歴、特に「家庭」という場で身についた関係の学習が影響する場合があることも指摘されています。家庭は最初に人間関係の型を学ぶ場であり、そこでの役割分担や責任の引き受け方が、その後の対人関係の土台になるといわれています。機能不全な家庭環境で育ち、幼い頃から家庭内の緊張を察知し、「自分がしっかりしなければ」「自分が我慢すれば場が保たれる」といった役割を担ってきた人は、その役割意識を大人になってからも無意識に引き継ぐことがあります。

こうした家庭で育つと、知らず知らずのうちに「自分を必要とする人」「自分に依存しやすい人」を身近に選びやすくなることもあります。それは相手を支えたいという善意や責任感から来るものであり、意識的に選んでいるというより、慣れ親しんだ関係性の形に引き寄せられている結果だと考えることもできます。

その背景には、他人を通して自分の存在価値を確かめたい、他人の必要性の中で自分を満たしたいという欲求が、無自覚に形成されてしまうこともあります。これは利己的な動機というより、幼少期から満たされないまま抱えてきた感覚を現在の関係性の中で埋めようとする、人として自然な反応として捉えることができます。

これは本人の意志や性格の問題ではなく、環境の中で身についた適応の結果です。その役割意識が人を支える立場に固定されやすい関係性と結びつくことで、共依存の構造に入り込みやすくなることがあります。


気づきがもたらすもの|選択肢が増えるということ

関係性の中にある構造は、当事者にとっては非常に見えにくいものです。しかし、第三者の視点や、概念としての言葉を知ることで、それまでとは違う見方が可能になる場合があります。

共依存という枠組みを知り、自分の置かれている状況を整理することで、「これまで考えられなかった選択肢」が視野に入ることがあります。

その過程で、「自分が悪かったからこうなったのではない」という理解に至る場合もあります。あわせて、自分の中にあった「してあげたい」「支えたい」という気持ちが、純粋な愛情ではなく、他者を通して自分を保とうとする依存の形だったのではないか、と捉え直すこともありました。

これは自分を責めるための気づきではなく、関係性の中で無自覚に担ってきた役割を見直すための視点です。これは自己正当化ではなく、責任の所在を正しく捉え直すことによって初めて可能になる理解であり、感情の問題というより理解の枠組みが変わることによって起こる変化だと言えます。


「離れる」という判断について

構造を理解した結果として、「離れることでしか解決できない」と判断に至る場合もあります。これは衝動的な決断ではなく、他の選択肢を検討したうえでの結論として位置づけられるものです。

依存できる相手としての自分がそこに存在し続ける限り、関係性そのものに変化は起こらないのではないか、という認識に至ることもあります。支える側が関係の中にとどまり続けることで、結果的に相手の回復を妨げている可能性があると理解したとき、「離れる」という選択が現実的なものとして浮かび上がってくるのです。また、単なるアルコール依存だけでなく暴力を伴う状況であった場合には、心身の安全、さらには命の危険を感じたことが、判断の大きな要因になることもあります。

重要なのは、この判断が誰にとっても同じ答えになるわけではないという点です。ただ、構造を知ることで、関係を続けること以外の選択肢が現実的なものとして認識されるようになる場合がある、という事実は整理しておく必要があります。

支援や外部資源の位置づけ

DVや依存、共依存といった問題は、当事者だけで抱え込むにはあまりにも複雑です。そのため、支援制度や相談窓口の存在が重要になりますが、ここで注意しておきたいのは、支援や外部資源が「正解を与えてくれる場所」ではないという点です。

多くの場合、外部資源は即座に状況を変えてくれるものではありません。話を聞いてもらっても、明確な答えが返ってこないこともあります。しかしそれは、支援が無力だからではなく、当事者の置かれている状況が一つの助言や判断で整理できるほど単純ではないからです。

外部の存在が果たす役割は、判断を代わりに下すことではなく、状況を言葉にし、構造として整理する手助けをすることにあります。第三者の視点が入ることで、それまで自分の内側だけで循環していた考えや責任の所在が、少しずつ外に開かれていくことがあります。

また、支援は必ずしも制度や専門機関に限られません。身近な人が、結論を急がずに話を聞き、黙って見守るという関わり方をしてくれたことで、自分自身の考えが整理されていく場合もあります。

振り返ってみると、支援者がすぐに答えや方向性を示さず、当事者自身が気づきに至るのを待っていたように感じられることもあります。重要なのは「何をしてもらったか」ではなく、「自分で考える余地が保たれたかどうか」だと言えます。

支援や外部資源は、依存先になるためのものではなく、孤立を防ぎ、選択肢を見失わないための支えとして位置づけるほうが、現実に即した理解につながります。


おわりに|問題を単純化しないために

DV、アルコール依存、共依存は、単独で切り分けられる問題ではなく、背景や関係性の中で絡まり合いながら現れます。そのため、意志の強さや性格といった単純な説明では、現実を捉えきれないことが多くあります。

構造として整理することで、初めて見えてくるものがあります。それは必ずしも解決や希望といった形ではなく、「自分だけが悪かったのではない」という理解や、不必要な自責から距離を取る視点かもしれません。

理解は、正解を与えるものではありません。しかし、責任の所在を整理し、選択肢を見失わないための土台にはなります。この記事が、問題を単純化せずに考えるための材料の一つとして、どこかで役立つことがあれば幸いです。

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